朝の光が、こもれび商店の顧客相談室に差し込んでいた。データ担当の紬は、問い合わせ記録の入ったファイルを開いたまま、生成AIの入力画面で手を止めていた。氏名や電話番号を消せば使えると思っていたが、住所、最寄り駅、購入時期、自由記述まで重なると、誰の話か見えてしまうかもしれない。
「FAQの改善に必要なのは、顧客さんの名前ではなく、困っていた内容です」
紬はそう言って、送るデータを一つずつ選び始めた。名前を別の記号に変えるだけでは足りない。RAGの検索結果や社内記録と結びつく再識別リスク、AIサービスの利用規約、学習データとの分離まで考えた、生成AI時代の匿名化ルールが必要だった。相談室の机には、データ最小化と安全なデータ消去を書いた小さな確認表も置かれていた。
この記事の答え
- 結論生成AIに顧客データを渡す際は、目的に必要な情報だけを匿名化して利用する。
- 根拠氏名の置換だけでは不十分で、情報の組み合わせやRAG、サービスの学習利用から再識別され得る。
- 最初の一歩まず利用目的を定め、直接識別子と再識別につながる項目を洗い出して不要な情報を削除する。
第1章 朝の窓辺で、生成AIに渡すデータを選ぶ

第1章 朝の窓辺で、生成AIに渡すデータを選ぶ - 本文
朝の八時、こもれび商店の顧客相談室に、窓から細い光が差し込んでいた。コピー機が低くうなり、遠くで開店準備の台車がことこと鳴っている。窓辺の机には、昨日までの問い合わせ記録が入ったファイルと、開きかけの表計算シートが積まれていた。
データ担当の紬は、机の端をきれいにそろえるのが好きだった。赤い付せんは急ぎの相談、黄色は商品の使い方、青は改善のヒントと決めている。今朝は、その記録を生成AIで整理し、「よくある問い合わせ」と「商品の改善点」を見つけるつもりだった。
紬が画面を開くと、隣の席の亮がマグカップを置いた。亮は便利な道具を見つけると、すぐ試してみたくなる人だった。
「顧客対応の記録を、そのまま貼ればいいですよ。すぐ要約できます」
亮はファイルを一つ持ち上げた。表の一行目には氏名、電話番号、住所、注文番号が並んでいる。自由記述の欄には、商品の不具合だけでなく、家族のことや訪問した日時まで書かれていた。
紬の指が、送信ボタンの上で止まった。たとえば「駅から徒歩五分の集合住宅」「先月の土曜日」「特定の商品を一つだけ購入」という情報が重なると、名前を消しても、誰の相談か想像できるかもしれない。近所の担当者や社内の記録と結びつけば、さらに見つけやすくなる。
「亮さん。このAIに渡す目的は、何でしょう」
「ええと、問い合わせをまとめることですよね」
「もう少しだけ、細かくしたいです。FAQの改善ですか。広告を出す相手を考えるためですか。それとも、担当者の対応品質を確認するためですか」
亮は画面を見つめた。どれも仕事に見えるが、必要な情報は同じではない。紬は引き出しから白い紙を出し、真ん中に大きく目的と書いた。
「FAQの改善なら、困っていた内容と商品の種類、解決したかどうかが分かれば足ります。名前や電話番号、正確な住所、注文番号までは要りません」
「購入履歴も、全部はいらない?」
「はい。商品の使い方を直すなら、関係する商品の種類と、使った場面だけで十分かもしれません。広告の対象を考える仕事なら、そもそも別の目的として、使ってよいかを確認しないといけません」
紬は紙に三つの欄を作った。左には「目的」、中央には「必要な項目」、右には「入力しない項目」と書く。FAQの欄には、相談内容、商品分類、解決状況だけが残り、氏名、連絡先、住所、顧客ID、顔画像、指紋は右側へ移された。
「個人情報保護法の第18条にも、何のために使うかを具体的に決めて、その目的に沿って扱う考え方があります。だから、先に『何を入力しないか』を決めるんです」
亮は、顧客IDの行を指でなぞった。
「名前を消して、C-104みたいな番号に変えれば安全ですか」
「その番号と元の顧客情報を結ぶ対応表があれば、社内では同じ人に戻せます。記号に置き換えただけで、法令上の匿名加工情報になるとは限りません」
紬は、対応表の保存場所を確認した。加工前の記録と対応表は、生成AIへ送る作業用データとは別の場所に置かれている。けれど、RAGを使って社内資料を検索し、回答を補う仕組みにこのデータを混ぜれば、検索結果や別の記録から本人が見つかる可能性は残る。
「RAGは、社内の資料を探して、AIの答えに足す仕組みです。便利ですが、入力した相談記録と社内の顧客台帳がつながるなら、再び誰の話か分かる危険があります」
「なるほど。AIに見せる前だけでなく、あとで何と結びつくかも見るんですね」
「そうです。それに、使うサービスの規約も確認します。入力した内容が学習に使われるのか、保存されるのか、第三者への提供に当たるのかを、会社のルールに入れておきたいです」
紬は、個人情報保護委員会の生成AIサービスの利用に関する注意喚起を開いた。画面の白い光が、机の上の付せんを照らした。そこには、生成AIへ入力できるデータ、利用できるサービス、加工前データの入力禁止、照合や再識別の禁止という言葉が並んでいた。
「匿名化したら、何でも入れていいわけではないんですね」
「はい。国内に数人しかいない年齢や、珍しい購入時期のような情報も、組み合わせれば手がかりになります。必要なら年齢を年代にし、地域を広くし、購入履歴をまとめます」
亮は、ファイルの自由記述欄を開いた。そこには、相談者が書いた長い文章が残っている。紬は、困りごとの中心だけを取り出し、家族構成や訪問先の細かな記述を入力用の欄から外した。
「この作業は、ただ隠すだけじゃないんですね。目的に必要な形へ、小さく整える作業なんだ」
「はい。法令上の匿名加工情報は、名前を黒く塗るだけではありません。元に戻せないことや、他の情報と合わせても個人を特定しにくいことまで考える必要があります。社内でつなぐための仮名加工情報とは、扱い方も分けて考えます」
九時を少し過ぎると、相談室の電話が一度鳴った。紬は、紙の下に小さな確認表を置いた。「目的」「必要な項目」「入力先」「対応表の分離」「作業後の安全な消去」の五つが並んでいる。亮はその表を見ながら、元のファイルを閉じ、必要な項目だけを新しい作業用シートへ移した。
送信されたのは、名前のない短い相談文と、広い商品分類、解決状況だけだった。画面にFAQの案が並ぶと、紬はようやく肩の力を抜いた。窓辺の光は少し高くなり、机の上には、顧客さんの名前ではなく、顧客さんが困っていたことが残っていた。
第2章 消した名前の向こうから、町が見えた

第2章 消した名前の向こうから、町が見えた - 本文
試しに氏名を「顧客A」に置き換えた相談記録を、紬は生成AIの画面に入力した。名前が消えていれば大丈夫だと思い、FAQの改善に必要な相談内容だけをまとめたつもりだった。
午前の相談室には、プリンターの小さな音が響いていた。紬はテスト用の記録を開き、入力欄へ一行ずつ貼り付けた。記録の先頭には、確かに氏名の代わりに「顧客A」と書かれている。
「最寄り駅は、ひだまり駅。職業は、市内で数人しかいない活版印刷職人……。購入品は、子ども用の防水靴と、祖母用の補聴器の電池。相談日は六月十二日。小学三年の娘と祖母の三人暮らし」
紬はそこで一度、指を止めた。駅名は相談の流れを知るために必要だと思った。職業や購入品、家族の記述も、問い合わせの背景を残すためにそのままにしていた。
「この組み合わせなら、誰のことか分かる人がいるかもしれないよ」
背後から声をかけたのは、営業担当の亮だった。亮は駅前店と本店を行き来し、顧客からの相談を直接聞くことも多い。
生成AIは、記録を短くまとめ始めた。画面には、顧客Aについての要約が数秒で表示された。そこには、入力した情報が、読みやすい文章として並んでいた。
「顧客Aは、ひだまり駅の近くに住み、活版印刷の仕事をしている。小学三年の娘と祖母と暮らし、六月十二日に……」
亮の顔から、笑みが消えた。
「これ、先週、駅前店で相談していた人ではないか。防水靴のサイズを迷っていて、そのあと補聴器の電池も探していた。娘さんの話もしていたよ」
紬は画面を見つめた。「顧客A」という文字は、名前の代わりに置いた札にすぎなかった。札の周りに、駅、仕事、買い物の日、商品の組み合わせ、家族の姿が残っていた。
「外に流れたと決まったわけではない。でも、社内の限られた情報だけで、本人を推測できてしまった」
亮はそう言って、マウスから手を離した。紬は送信済みの表示を確認し、テスト結果を保存する前に、画面を閉じた。
相談室の空気が、少し冷たくなった。紬は、名前を消した処理を本当に「匿名化」と呼んでよいのか、分からなくなった。
「名前を別の文字に変えただけでは、法令上の匿名加工情報になるとは限らないんだね」
「うん。ほかの情報と照合して本人が分かるなら、安心して匿名化できたとは言えない。仮名加工情報という別の考え方もあるけれど、元の記録と結び付く対応表や社内IDの管理まで考えないといけない」
紬は、個人情報保護委員会の匿名加工情報の説明を開いた。氏名の削除だけでなく、個人を特定できる特異な記述や、ほかの情報との組み合わせにも注意が必要だと書かれていた。
画面の脇には、こもれび商店が準備しているRAGの設計図もあった。RAGは、生成AIが答えを作る前に社内文書を検索し、その結果をつなぐ仕組みだと、紬は亮に説明した。
「今回の記録をRAGに入れたら、顧客IDや来店記録まで検索結果に出るかもしれない。顧客Aという仮の名前が、社内の別の情報と結び付いてしまうね」
「生成AIに送る前だけでなく、検索結果から本人が見えてしまわないかも確認する必要があるんだ」
二人は、入力に使ったサービスの利用規約とヘルプを開いた。そこには、入力データの保存期間、機械学習への利用の有無、国外で処理される可能性を確認する項目があった。
紬は、料金の欄を見ながら首をかしげた。無料サービスだからすぐ危険、有料サービスだから安全、と単純に決めてよい話ではない。どのサービスでも、データが何に使われ、どこで処理され、いつ消えるのかを確かめる必要があった。
「入力した記録が、サービスの改善やモデルの学習に使われるのか。保存を止められるのか。国外の拠点で処理されるのか。ここを読まずに送るのは、鍵をかけずに書類を置くようなものだね」
亮は、個人情報保護委員会の生成AIサービスの利用に関する注意喚起を画面の隣に並べた。匿名化の方法だけでなく、入力できるデータの範囲と、使うサービスの条件を社内で決める必要があることを、二人は静かに確認した。
その日のテスト送信は、そこで止めた。紬は加工前の記録、加工方法、対応表を別々の場所に戻し、生成AIの画面に残った入力履歴も社内の手順に沿って消去した。
翌朝、確認表の最初の欄が書き換えられた。駅名は広い地域にまとめ、日付は月単位にし、職業は相談に必要な範囲だけを残す。購入品は個別の商品名ではなく、相談の種類に置き換え、家族構成の細かな記述は削った。
亮は新しいテスト記録を読み、今度は誰の顔も思い浮かべなかった。紬はその横で、使う生成AIサービスの条件と、RAGの検索範囲を一つずつ確認していた。顧客Aの札を外すだけでは、町の景色まで消えないことを、二人はもう知っていた。
第3章 古い地図を広げる夜

第3章 古い地図を広げる夜 - 本文
夜の会議室で、紬たちは顧客データの行き先を見つめていた。窓の外では、商店街の明かりが一つ、また一つと消えていった。テーブルの向かいには、個人情報保護に詳しい相談員の水野が座っていた。
水野は、白いカードを三枚、静かに並べた。カードには、「利用目的」「AI事業者のデータ利用」「再識別リスク」と書かれている。
「この三つを、別々に考えないことが大切です」
亮が、カードをのぞき込んだ。
「再識別というのは、名前を消したあとに、また本人がわかってしまうことですよね」
「はい。名前は、直接見える手がかりの一つにすぎません」
水野は、白い紙に小さな丸をいくつか描いた。郵便番号、年代、購入時期、担当店舗、珍しい相談内容という文字が、その丸のそばに並んだ。
「一つだけなら、誰のことかわからない情報もあります。でも、郵便番号と年代が重なり、購入時期と担当店舗が加わり、珍しい相談内容まで残っていたらどうでしょう。情報が組み合わさると、本人に近づいてしまいます」
紬は、前章で亮が「顧客A」から本人を推測した場面を思い出した。名前を記号に変えただけでは、地図の上に別の目印を残していたのだ。
「それを、モザイク効果と呼ぶことがあります」
水野は、白いカードをタイルのように並べ直した。
「難しく聞こえますが、小さなタイルを一枚ずつ並べると、最後に顔が見えてくるようなものです。郵便番号を広い地域にまとめる、年代を年齢階級にする、購入時期を月ではなく季節にする。必要なら、珍しい相談内容も一般的な表現に直します」
紬は、確認表の余白に「単独ではなく、組み合わせで見る」と書いた。水野は続けて、法令上の言葉にも触れた。
「氏名を消しただけで、法令上の『匿名加工情報』になるとは限りません。個人を識別できないようにし、元に戻せないように加工した情報を指します。一方で、対応表などを使えば元の人と結びつく状態は、『仮名加工情報』として考える場面があります」
水野は、個人情報保護委員会の匿名加工情報の案内と、仮名加工情報・匿名加工情報編のガイドラインを画面に映した。紬は、社内IDや顧客ID、顔画像、指紋、特異な記述も、入力前に削除や置換を検討する必要があると知った。
「では、顧客IDを別の番号に置き換えれば安全ですか」
亮が尋ねると、水野は首を横に振った。
「社内に対応表があり、その番号から元の顧客へ戻れるなら、匿名になったとは言い切れません。加工前のデータ、加工方法、対応表は、入力用データとは分けて、見られる人も限ります」
そこで紬は、会議室の壁に貼られた社内資料を指さした。資料には、顧客相談記録と社内議事録を検索するRAGの構想が描かれていた。
「RAGを使うと、匿名化した相談記録も危なくなりますか」
「危険が増える場合があります。RAGは、質問に関係する文書を検索して、回答の材料にする仕組みです。別々の文書に散らばっていた断片を、検索が近づけてしまうことがあります」
水野は、左の紙に「相談記録」、右の紙に「議事録」と書き、二枚を一本の線で結んだ。
「こちらに『駅の近くの店舗』、あちらに『春の特別注文』とあれば、検索結果を重ねたときに、一人の顧客へ戻るかもしれません。知識グラフも同じです。人、店舗、商品、時期などの関係を線で結ぶので、便利なぶん、断片のつながりを強くします」
紬の胸に、冷たい風が通った。送る文章だけを見ていたが、検索先にある社内記録まで含めて、再識別の道ができるかもしれない。
「入力する前に消せば、それで終わりではないのですね」
「はい。どこへ送るか、何と結びつくかまで確認します」
水野は、三枚目のカードを裏返した。裏には、「その場の処理」と「学習用データ」と書かれていた。
「通常のプロンプト入力は、その場で文章を作るための処理です。一方、学習用コーパスは、AIモデルを学習させるために集めるデータのまとまりです。似て見えても、保存される期間や削除の難しさは同じではありません」
亮が、サービスの設定画面を開いた。
「入力した内容が、学習に使われるかどうかは、サービスごとに違うのですか」
「利用規約や契約、設定によって異なります。保持期間、削除方法、機械学習への利用、第三者提供に当たるかを確認してください。個人情報保護委員会も、生成AIサービスの利用に関する注意喚起を公表しています」
水野は、四枚目の紙を取り出した。そこには、「顧客情報を学習用データへ混ぜない」と太い線で書かれていた。
「こもれび商店では、FAQを直すために必要な相談内容だけを使います。加工前の記録や対応表は入力しません。学習用データを作る場合も、顧客情報を混ぜず、削除の記録まで残しましょう」
紬は、最初のカードに戻った。「利用目的」の文字が、先ほどより大きく見えた。名前を知りたいのではなく、困りごとの傾向を知りたいのなら、名前も細かな住所も必要ない。
「目的に必要な項目だけを残す。組み合わせで少人数にならないように広げる。RAGの検索先も確認する。サービスの規約と学習利用も見る」
紬は、声に出しながら新しい確認表を作った。水野はうなずき、最後の欄に「安全な消去」と書き足した。
「送信後だけでなく、作業用ファイルや一時保存先も確認しましょう。使い終わったデータを、決めた方法で消せるようにします」
会議室の時計が、静かに十時を告げた。紬は、山のように見えていた問題が、順番のある道に変わっていくのを感じた。
「明日の朝、まず過去の相談記録を目的別に分けます。入力項目を絞って、組み合わせで特定されそうなものを広げます。RAGの検索対象とAIサービスの条件も、一つずつ確認します」
亮が笑った。
「やってみよう。今度は、顧客さんの困りごとを守りながら、ちゃんと役立てよう」
窓の外には、消えた商店街の明かりの代わりに、細い月が浮かんでいた。紬は確認表を閉じず、最初の一行に「利用目的」と書いた。
第4章 三つのフィルターを通る顧客の声

第4章 三つのフィルターを通る顧客の声 - 本文
朝の光が、こもれび商店の顧客相談室に差し込んだ。紬たちは、生成AIへ相談記録を送る前の確認表を、ホワイトボードの横に貼った。
「FAQの改善に必要なのは、お客さまの名前ではなく、困っていた内容です」
紬が表の一番上に書いたのは、「目的に必要か」という言葉だった。列には「残す項目」「削除する項目」「確認した人」と並べた。水野は、最初からすべてを隠すのではなく、使う目的に合わせて情報を減らすのだと話した。
「FAQなら、問い合わせの種類と困りごと、回答に必要な背景があれば十分です。氏名、電話番号、注文番号、正確な住所は、入力する前に外しましょう」
紬は相談記録を開き、氏名と連絡先を削除した。注文番号、番地までの住所、担当者だけが使う顧客IDも消した。添付ファイルは内容を確認し、ファイル名に残っていたメールアドレスや注文番号も取り除いた。
次の列には、「直接見える識別子を消せているか」と書いた。
構造化された表は、Google スプレッドシートにコピーし、REGEXMATCHで電話番号、メールアドレス、URLらしい文字列を探した。顧客IDのような決まった形の文字列にも正規表現を使い、見つかった行には黄色い印を付けた。正規表現は、決まった文字の形を見つける小さな網だと、水野が説明した。
「網にかからないものもあります。だから、機械の印だけで終わらせません」
自由記述には、固有表現抽出の候補を出した。spaCyなどのツールで人名、地名、会社名を拾い、その後で紬と同僚が文章を目で読んだ。「顔写真」「指紋画像」のような個人識別符号や、珍しい出来事も確認の対象にした。
最後の列は、「組み合わせで本人が分からないか」だった。購入日を日単位から月単位に丸め、細かな駅名を広い地域に置き換えた。珍しい職業や、一度しか起きていない出来事は、意味を残しながら一般的な表現に直した。
「一つずつは普通の情報でも、重なると名札になります」
紬は名前と住所を消した記録を、社内のテスト用RAGに入れた。RAGは、社内資料を検索して、生成AIの回答材料にする仕組みだ。結果にはFAQの下書きだけでなく、別の会議議事録に残っていた「特定の店舗で起きた珍しい相談」も表示された。
名前はない。それでも、購入時期、地域、相談内容、店舗の記録が結び付き、候補が絞り込めてしまった。
「匿名化したから安全、ではありません。RAGの検索範囲と、登録する項目も設計しないといけません」
水野は検索結果を指で追った。原文の全文を検索インデックスに登録すると、消したはずの手がかりが別資料から戻ってくる。顧客データと検索結果を同じ権限で扱えば、見える人の範囲も広がってしまう。
そこで紬たちは、原文をRAGへ登録しないことにした。登録するのは、「問い合わせ分類」「困りごとの要約」「回答に必要な一般的背景」「月単位の時期」「広い地域」だけにした。顧客IDと対応表は別の保管場所に置き、検索用の要約には連結できる符号を残さなかった。
「検索結果は便利ですが、元の顧客データと同じ鍵で開けないようにします」
新しい要約を検索すると、候補は絞れなくなった。けれど、要約の中に「商店街の記念行事」という固有の言い回しが残っていた。紬はそれを「地域イベント」に置き換え、入力前に元文との差分を人が確認する手順を追加した。
確認者は、削除した項目が戻っていないか、月や地域の丸め方が守られているか、検索結果に原文が混ざっていないかを見る。承認されたデータだけを、社内で利用を認めた生成AI環境へ送る。利用規約で、入力データの学習利用や第三者提供の扱いも確認し、ChatGPTなど許可されていないサービスには貼り付けないことにした。
「この流れなら、匿名化の作業とAIサービスの確認が、別々になりませんね」
水野は、個人情報保護委員会の生成AIサービスに関する注意喚起を開いた。名前を隠しただけで、法令上の「匿名加工情報」になるわけではない。復元や照合が可能な状態なら、「仮名加工情報」など別の区分に関わることもあるため、社内の呼び方だけで判断せず、匿名加工情報の案内や専門家に確認することになった。
「匿名化の強さは、いつも同じにしません。FAQの改善なら内容を少し残し、再発防止の分析なら、地域や時期をさらに広げる。必要な精度、安全性、作業の負担を見ながら決めます」
作業用のCSVは承認後に期限を決めて削除し、共有ドライブのごみ箱も確認した。加工前の記録と対応表は別管理のまま、確認表には担当者と日時だけが残った。
午後、生成AIが作ったFAQ案には、「配送状況が確認できないときの手順」と、やさしい案内文が並んでいた。そこには、誰の相談だったかを示す名前も、たどれる注文番号もなかった。紬は確認表の三つの欄を見てから、静かに送信ボタンを押した。
第5章 検索窓に戻ってきた、短い記録

第5章 検索窓に戻ってきた、短い記録 - 本文
改訂後の運用初日、こもれび商店の相談室では、顧客記録が三つの確認欄を通り、短い一覧に変わっていた。以前はファイルを開くたび、氏名や住所のそばに、購入した時期や最寄り駅まで並んでいた。紬は、静かになった画面を見つめた。
机の上には、青い確認表が置かれていた。画面の左には「目的」、中央には「直接識別子」、右には「組み合わせ」の欄がある。社内の記録を検索して答えを組み立てるRAGの検索結果も、入力前に確認する決まりになっていた。
「最初の欄は、何に使うデータかを見るところです。FAQを直すなら、名前ではなく、困っていた内容が必要です」
紬は画面を指でなぞった。
「次は、名前や連絡先です。最後は、住所や時期のように、重なると誰の話か分かってしまう情報です」
今回、生成AIへ渡る項目は、「商品カテゴリ」「問い合わせの種類」「大まかな時期」「困っていた点」だけだった。氏名、住所、電話番号、メールアドレス、顧客IDは表示されない。購入履歴も、個人を追える細かな並びではなく、問い合わせの傾向を見るためにまとめられていた。
「これなら、顧客さんの一人ひとりを探すのではなく、質問の形を見られますね」
亮が隣の席から画面をのぞいた。紬が送信ボタンを押すと、生成AIは短い返答を返した。
「配送状況の確認方法に関する質問が多い。説明書のこの部分が分かりにくい」
文字は二行で止まっていた。以前のように、長い相談記録を読み返して、個別の事情を探す必要はなかった。出力には名前も、住所も、検索結果の細かな手がかりも残っていない。
ただし、画面の下には黄色い印が一つあった。自由記述が長く、特定の出来事と結びつく可能性がある記録だった。AIは処理を続けず、「人の確認へ戻します」と表示した。
「便利だからといって、全部を自動で進めないんですね」
亮の声に、少し前までの硬さはなかった。紬はうなずき、確認画面を開いた。そこには、元の文章をそのまま表示せず、問題になりそうな部分だけが伏せて並んでいた。
「個別の顧客に関わるかもしれないものは、人が見ます。削るか、もっと広い表現にするか、それでも目的に必要かを決めます」
亮は、以前の記録と今の画面を見比べた。前は名前を消しただけで、地域、駅、購入時期、自由記述が残っていた。今は、検索で結びつきそうな情報まで整理されている。
「今回は、名前を消しただけではないんですね」
「はい。記号に置き換えただけでも、対応表や社内の別記録で元に戻せるなら、それだけで匿名加工情報とは言えません。個人情報保護委員会の匿名加工情報の説明にも、識別できず、元へ復元できないように加工する考え方が示されています」
紬は、仮IDの欄を見せた。FAQ改善の入力には、仮IDさえ入れない。対応表と加工前の顧客データは別の保管場所にあり、入力用のデータからはたどれないよう、権限も分けていた。匿名加工情報と仮名加工情報は扱いが異なるため、区分を決めつけず、利用目的と状態を記録することになっていた。
別の画面には、利用する生成AIサービスの確認記録が残っていた。入力できる項目、第三者提供に当たるか、規約上の保存や学習利用の扱い、加工前データや対応表を入力していないかが、送信前に確認される。生成AIの利用については、個人情報保護委員会の注意喚起も参照し、サービスごとの確認日も記録していた。
その日の午後、FAQの改訂案が開かれた。見出しは「配送状況を確認する方法」と「説明書で迷いやすい箇所」の二つで、個別の相談者を思わせる文章はなかった。AIに渡す情報が減ったことで、紬たちが確認する範囲も、画面の上で見えやすくなっていた。
亮は新しい検索窓に、短く整えられた記録を入れた。返ってきた答えは、以前より小さかった。それでも、必要な場所へまっすぐ戻ってくる答えだった。
相談室には、送信前に立ち止まる静かな間が生まれていた。誰かの名前を探すためではなく、困りごとの形を見つけるための間だった。紬は確認表を閉じ、次の短い記録を人の確認画面へ送った。
第6章 夕方の送信ボタンの前で

第6章 夕方の送信ボタンの前で - 本文
数週間後の夕方、こもれび商店の相談室に新しい依頼が届いた。窓の外はオレンジ色で、紬の机には前に使った確認表が開かれていた。朝のように画面の前で手を止めるのではなく、今度は皆で送信前の欄を見つめていた。
商品担当の亮が、赤いフォルダーを胸に抱えて入ってきた。新しい商品の問い合わせを、もっと細かく分析したいという依頼だった。
「次回は、顧客さんの自由記述も入れませんか。言葉の細かい違いまで見られそうです」
紬はすぐに送信画面を開かなかった。まず、分析の目的と必要な項目を紙に書き、名前、電話番号、住所、メールアドレス、顧客IDが残っていないかを確認した。それから、年齢や地域、購入時期を組み合わせたとき、少ない人だけに絞られないかを見た。
「細かく見る目的は、問い合わせの傾向を知ることです。人を見つけることではありません」
亮は画面の端にあるRAGの欄を指さした。RAGとは、社内の文書を先に探し、その結果を使って生成AIが答えを作る仕組みだと、紬は前にも説明していた。
「検索範囲は、匿名化した相談データだけにします。原文と対応表は、RAGには登録しません」
紬は過去のテスト記録を開いた。そこには名前がないのに、「三人の子どもと暮らしている」「駅前の小さな工場で働いている」「町内で一度だけ起きた出来事」といった記述が残っていた。地域や時期と重なると、自由記述だけでも誰の話か見えてしまうことがあった。
「名前を消しただけでは、まだ安心できないんですね」
「そう。珍しい出来事や、家族構成、勤務先のような情報も、組み合わせで人を指すことがあります。仮の番号に変えても、対応表や社内記録と結びつけられるなら、匿名加工情報として扱えるとは限りません」
机の端には、個人情報保護委員会の生成AIサービス利用に関する注意喚起を印刷した紙が置かれていた。紬は、利用するAIサービスの規約と、入力した内容がサービス改善や機械学習に使われる条件も確認した。
利用規約には更新日が記されていた。前に読んだ日と変わっていたので、紬は送信を止め、管理部へ確認を依頼した。
「条件が変わっていたら、匿名化できていても送らないんですね」
「うん。入力できる項目、第三者提供にあたるか、学習用データと分かれているかを、もう一度確かめます。確認が終わるまで、ボタンは押しません」
しばらくして、利用条件が社内で許可された範囲に収まっていると返事が来た。紬は加工前の記録と対応表を別の保管場所に戻し、AIへ渡す相談データだけを小さな作業箱に残した。
送信前の画面には、四つの確認欄が並んでいた。「目的に必要か」「直接識別子を除いたか」「組み合わせで特定できないか」「学習用データと分かれているか」。紬は一つずつ、亮の読み上げる声に合わせて印を付けた。
「新しい項目を足すときも、新しい検索範囲を使うときも、新しいAIサービスを選ぶときも、同じ確認から始めます」
亮は自由記述の最後に残った一行を見つめた。それは、名前のない短い文章だったが、家族の人数と地域と曜日が重なれば、一人に近づいてしまう記述だった。
「これは、細かさより安全を選びます」
亮が削除すると、画面の警告が消えた。紬は確認印を付け、送信できる項目が目的に必要なものだけになったことを確かめた。
「匿名化のルールは、作って終わりではないんですね」
紬は窓の外を見た。朝に止まっていた画面は、夕方の光の中で静かに進み始めていた。
「データが変われば、見るところも変わります。だから、そのたびに確かめればいいんです」
必要な情報だけが小さな箱に収まり、個人を特定しない相談データが生成AIへ静かに送られていった。オレンジ色の窓辺には、送信完了の小さな印だけが残った。
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著者について
鈴木信弘(SNAMO)
鈴木信弘(SNAMO)- 静岡県焼津市を拠点に活動する総経験19年のフルスタックエンジニア。AI時代の次世代検索最適化技術「レリバンスエンジニアリング」の先駆的実装者として、GEO(Generative Engine Optimization)最適化システムを開発。2024年12月からSNAMO Portfolioの開発を開始し、特に2025年6月〜9月にGEO技術を集中実装。12,000文字級AI記事自動生成システム、ベクトル検索、Fragment ID最適化を実現。製造業での7年間の社内SE経験を通じて、業務効率75%改善、検品作業完全デジタル化など、現場の課題を最新技術で解決する実装力を発揮。富山大学工学部卒、基本情報技術者保有。
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